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今年は私たち家族にとって多忙な一年になりそう。でもワクワク!
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地下の本の山の中から老陸のお父さんが書いたエッセイ本が出てきました。お題は「楽しき人生」って感じかな、日本語に訳すと。以下は「中国」について書いたエッセイです。長いです。でも7歳から11歳までしかいなかったのにこの記憶力はすごい!
 そのときのパスポート写真。右が老陸のダディ(7歳)。耳の形が老陸とまったく同じってのが怖い~。

中国
1914年、私が7歳のとき父は上海工業専門学堂(現上海交通大学)からオファーがあって物理教授として赴任した。先に東京、横浜を経て上海に赴任した父は十分アメリカと同じ生活ができると考えて私たち母子を呼びよせることにした。

サンフランシスコから船に乗って私たち母子(母、私、妹、弟)はようやく横浜に着いた。しかし迎えに来るはずの父親が見当たらない。母は父が来るまで絶対船から降りないと言って日本人をあわてさせた。しかし日本人はとても礼儀ただしく私たちに接してくれて、日本中を探して、ようやく富士山に登ったあと箱根の温泉にいた父親を見つけてくれた。どうやら日にちを間違えていたらしい。
二日間東京で過ごしそこから汽車で神戸に向かった。東京では演芸場に行った。靴を脱いで布製のスリッパに履き替えて手品師が体のなかから大きな鯉を出すという素晴らしい手品を見た。
今から考えても1914年の日本の汽車は素晴らしかった。神戸への汽車の中では3段重ねの弁当ボックス(ご飯、肉、野菜が別々になった)を食べた。箸とナプキンもついてきた。日本でものを食べるのは怖くは感じなかった。日本はすでに文明国家でどこに行っても清潔だっから。中国はあとでわかったが事情はまったく違ったけれど。4年間の中国生活では水は必ず煮沸して使ったし生の野菜は絶対食べなかった。

神戸から上海の船旅でみんな船酔いしたけれど、ようやく上海工業専門学堂のキャンパスの中に3階建ての赤レンガの家に住むことができた。
家には使用人、第一執事とその奥さん、乳母、シェフ、苦力(クーリー)そして庭師がいた。父は全部で月に”30金貨”を支払っていた。当時の中国では、アメリカドル(”金貨”と呼ばれていた)、メキシコの貨幣(メックスと呼ばれていた)という二つの通貨を使っていた。アメリカ金貨はメックスの2倍の価値があった。
第1執事は中国の習慣で奥さんをお金で買った。月末になるとこの執事はお金のことでよく奥さんを怒鳴りメイドクオーターからは皿が投げつけられたりする音が聞こえていた。そのたびに父が執事に「ちゃんとお金を管理しないとお前を首にするぞ!」というのが常だった。
使用人たちは不思議なものを食べていた。一番鮮明に覚えているのは乳母が作った蟹だ。大きな中華鍋に油を熱しそこに生きたままの蟹を入れてふたをする。そのうち鍋の中で蟹が跳ねる音がするという料理だ。
毎週土曜日の午後、子供たちは上海のダウンタウンに映画を見に行った。チャップリンの映画を見たのを覚えている。
ある暑い夏の夜、妹のヘレンが生まれた。彼女は英語を話す前に乳母(中国語でアマと呼んでいた)から中国を習って話していた。私たち年上の兄弟たちはそれをすごいと思いつつもなんとなくいい気持ちがしなかった。なぜなら私たちは指の名前ぐらいしか中国語でいえなかったから。
私たちの家の隣には広大な綿畑が広がっていた。そのところどころに中国人の墓があった。収穫が終わるとアメリカ人とイギリス人の男児が集まってはよくこの畑で「ドイツをやっつけろ」戦争ごっこをした。ある日墓の後ろに隠れて戦争ごっことしていると壊れた墓の中から骨が見えた。私たちは科学実験をしようと考えて、家からワゴンを持ち出してその骨をすべて集めた。家の裏庭で骨を骸骨状にしようと組み立てているところを母にみつかり・・・電話で知らされた父がすぐに帰宅してこっぴどくしかられた。その後綿畑で遊ぶことは禁止されてしまった。

2年後父は中国国内に電気をひく電力会社に転職して天津に行くことになった。当時の中国の主要都市には外国租界があって、私たちは天津のフランス租界に住むことになった。電力会社は父に電動自動車を使わせてくれた。時速20マイルで走るこの車は静かで本当に乗り心地が良かった。この車でよく郊外に遊びに行った。途中道沿いには地元のお百姓が置いた陶器の瓶がところどころにある。トイレに行きたくなるとこれに用を足すというわけだ。
上海から天津への引越しも大変だった。父が先に赴任して母がすべてをひとりでやった。その後すべての家財道具、執事夫婦、乳母、4人の子供、犬を連れて船で天津へ。途中台風のため船が沈むかという嵐にもあったがなんとか天津についた。
天津では私と弟はフランス租界の中のカソリックの学校に行くことになった。誰ひとり英語を話さないあの学校の初日は忘れることができない。しかし子供には奇跡がおきる。6週間後にはフランス語を話し始めたのだ!教師は教鞭を持っていてあれが恐ろしかった。授業中よそ見していたりすると両手をこれでばしっとやられるのだ。
2年間しか通わなかったがフランス語はネイティブなみになり60年後の今でもフランス語を読んだりするのが好きだ。フランスは私の第2の故郷のように思える。
天津の冬は寒く市内にはアイススケートリンクができた。ここでよく北京から来たアメリカの海兵隊チームと天津チームがやるアイスホッケーの試合を見たりした。
父はたまに仕事で北京に行くことがあり、あるとき私も一緒に行った。途中の駅で突然窃盗団が乗り込んできた。当時よくこういうことがあったので、このときはたまたま警備隊がいてマシンガンで追い払ってくれたので助かった。
夏は天津近くの海辺ですごした。 ロバにのって食料品を買いにいくと葬儀に出会った。プロの泣き女が狂ったように泣いていて涙を茶碗にためて最後にお墓にその涙をそそぐのだ。
第一次大戦が終わったときにはイギリス租界は大騒ぎになって警察も出動する騒ぎになった。当時の中国は汚職・飢餓が大問題だった。今の共産党独裁のもと、当時よりはましになっている中国を見て感慨深い。

1918年、父はアイダホ大学から招請されて物理教授として赴任することになった。今回も父が先に赴任して母が一人で引越しをやり子供たちを連れてアイダホに向かった。

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プロフィール
HN:
Ms.てびち
性別:
女性
趣味:
クロススティッチ
自己紹介:
アメリカ人夫老陸(ラオルー)、息子小陸(シャオルー)の3人でのアメリカ生活がスタートしました。アメリカ16年ぶりです。小陸にとっては初アメリカ生活です。どうなりますか。
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